昭和四十七年三月六日 朝の御理解


X御理解第二十六節 「信心に連れはいらぬ。一人信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。皆逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」


 同じお道の信心の、やはりそれぞれの、その人の個性というか出て参ります。どれが良いの悪いのではなくて、やはり自分のかく信ずるというところをまっしぐらに進んで行く。自分に力が付いて行きよることがわかる。その力におかげが伴っておる。いわゆる間違いがないと確信した道を、私は真っ直ぐに進んで行くことだ。言うならば、自分の言うたりしたりしていることに、一つの責任を以て、それが間違っているかいないかと確かめながら、信心を進めて行く。私は一人信心するのはそういうことにも通ずると思うです。ですから、このようにならなければならないということはないのです。
 そこでなんですけれども、合楽に御神縁を頂いて、合楽の御信心を頂いている人達は、やはり合楽流というものをやはり一通りはマスターせなければならない。それから、そこからです、そこから又善きは取り、悪しきは捨てるという生き方にならなければ、合楽の本当の信心は頂けないと思う。自分の考えで、先生はああ言いなさるけれども、そこのところは頂けないというような頂き方ですね、おかげの頂ける筈はないです。
 これは私と善導寺の場合であっても、私ならば間違いなく善導寺が親であり、善導寺から生まれた信心なのですよね。三井教会から生まれた信心です。かと言うて、これは親先生にも申してるのですけれども、もう本当に親子でありながら、どうしてこげん違うじゃろうかと思います。もう親先生がもし赤ならね、私は白です。ですから、親先生がかく信心することを、かくと信じておられ、思うておられ、又それを行じておられることを私は行じていない。それかというて、なら、私が信者時代にです、いかに三井教会の信心をひた受けに頂いたかということは、私の信者時代のことを思うて頂けばわかることです。その時代には大坪流とは言わなかったですね。一部は受けて頂いて、そして、そこからね、私のものが生まれて来る。これは本当にですね、親先生の仕られ方が間違っているということでは決してないです。素晴らしいです。けども、私には性に合わんのです。それで、親先生が赤なら、私が白に行く。だから、ややもすると、ちょっと間違うと赤白合戦のような形を取る。けれども、そこのところの調和がとれますと、それこそ紅白一重のような状態。私は、そうあらねばならない。私は、そうありたいことを願っているわけでありま
す。
 私は、今朝からお夢を頂いた。私はあの、御本部の金光駅のホームに立っておった。そしたら、偉大というか何というか、まあ、偉大な人が、神様かという。私は、あの東側寄りのホームのところにとっておった。そのホームの真ん中に三つ電気が煌々とついとります。私のおるところ薄暗かった。そしたらもう、何というか、桜の大きな蕾が、これ以上つかれるだろうかというくらい、まだ若い桜木のね、それはもう見事。まあ言うなら咲き位というところ、少しふくらんだ。で、その方が言われるのですよ、「この桜をこのままにしておきたい」と言われるのです。その桜がなんと私のようです。で、「この薄暗いところにおっては皆に見えんから、こちらへお出下さい」と言うて、真ん中の電気の三つついている下に、私が立たされたところを頂いた。もう一杯蕾がついとる。その蕾もふくらんでおる。この蕾をこのままにしておきたいと。こういう素晴らしいものを、「この薄暗いところに居ったってわからんから、中央に来て下さい」と言うてね、真ん中のその電気の下にいるところを頂いて目が覚めました。そして、今朝のお知らせじゃと頂きました。 それはもう、私共の周囲に同じ金光教の信心さして頂いとっても、先月から今月にかけて聞かせて頂くお話の中にありますように、日に千人づつもお参りがあるとか、御大祭には五千人から集まって、もう自動車なんか千台も集まるとか。という話を聞かせて頂いてもね、一つも、それを頂いても素晴らしいとは思わんのですよ。惜しいなあ、それだけの力を頂かれながら、それは必ず咲いたら散る運命にあるのだと。なぜってその、散る運命にあるのだ。間違えられておる。まあ一つの教会の場合は、親先生が一人でその、先生達は真似の出来ぬような大修行をなさった。七十才の御婦人ですけど。それで、どんどん人が助かるということ。一方の教会では例えば、病人なら病人が、「私の部屋においで」と言って帯を解かせ、そして悪いところを、ああここだなと手で当たって、それを神様にお願いなさる。だから、不思議に病気が治る。不思議に人がどんどん助かるというわけです。
 ね、どっちにしても、日に何千人という御参拝、なるほど此方の道は、人が助かることさえ出来ればとおっしゃるのですからね。けれども、一つ昨日の御理解を思って頂きたいのですよ。人が助かるということはね、私は、本当の助かりにつながらなければ、本当の助かりにならないと。目先、目先には、あの先生のおかげで病気が治ったと。あの時の、あの難しいことがおかげで解決したと。ああ、素晴らしいお徳者だと感激しただけではね。それでさあ、我も我もと言うて、お参りが多いか知れませんが。それらは目先のおかげになっておるけれども、真の助かりにつながってないから、その先生が亡くなると、桜の散るようにぱっと咲いて、ぱっと散って行くようになると。
 だから、合楽の場合、絶対そんな信心であってはならぬと、私は真から思っておることです。本当に人が助かるということは、真実自分自身に心が助かるのだと。天地の親神様がおかげは平等だと、受けものが悪いとおかげが漏るとおっしゃる。そのおかげの受けものなんだ。何千人と沢山受けものがあったところには、受けものなしにどんどん頂きよる
とでしょうが。おさすりしてもらってから、病気が治る。先生のお徳だけで、万事にお徳を頂く。それもなからなければならんけれども、根本的なね、まあ言うならば、一匹狼ではないけれども、私の行き方はもうどこの誰よりも違うわけなのです。そして、私が確信しておること、言うならば宗教革命という言葉は使われない。これでなければ、和賀心を創るなんて神様の心に添うことは出来ない。私はそう確信しているのです。
 だから、ぽかぽかと来て合楽の話を聞いてもわからない、ちょっと一般的じゃないから。けれど、これが教祖金光大神の御精神であり、これが天地の親神様の願いだ、【 】だと確信しておる。そこ んところをわからせてもらうことが、氏子の真の助かりということにつながる。神が平等におかげを授けるとおっしゃるのは、どういう誰であっても、私の話を聞いて下さって、実行して下さるなら、どういう頭の善い人でも悪い人でも必ず有り難くなれる。必ず喜びの芽が出て来る。もう絶対なのだ。だから、問題はその喜びの芽を育ててさえ下されば、受け物はもう間違いないのだと言うのが、私の確信しているところであります。
 そこでです、私は最近本当にそう思うのですけどね、だから、その基礎として、私が今朝からお夢を頂きましたように、まあ、なんという素晴らしい蕾であろうか、もうこれ以上つかるまいという程付いて、一杯とふくらんで咲いております。そして、その方が、その蕾をそのままにしておきたいと言われます。というて、このままにしとくわけには行きませんよね、目を開けます。だから、その素晴らしいという、蕾の時代の信心をね、私は本当に皆さんに体得しといてもらいたいということです。もう咲いてね、あれよあれよと言うごと満開の時になったらね、もうおかげばっかりであってね、後はぱっと散ってしまうです。
 まあ例えば、昨日聞かせて頂いた、二つの教えのことではない、皆さんの近所近辺の、大変御比礼の輝いたという、先代の亡くなられた後の教会を見て見られるとよい。散ってしもうとるでしょうが。合楽はそういうことを、もう繰り返してはならないと私は思うのです。ですから、私は誰がなんと言うたって、私は私の所信を貫く。これはもう親が言うたって、親の言うことに添うわけにはいかないということ。一人信心せよとは、そういうことではないでしょうか。ただ、妙な理屈を付けて、おかげも頂けん、自分も助かることのないような理屈を付けて、そしてそれを固守しておるというのもおかしいものです。ですから今こそね、本当にその、なんと素晴らしいと言われる、思われる程しの信心は私は今だと思うのです。合楽は咲いてはいない、けど、その蕾の時代の信心を頂かなければならない。
 そこでなんです。私がここ二三日、流感でしょうね、流行性感冒です。昨日、小野先生が来てから、そして先生、私の症状を見て言うとりました。同時に口中がえらい【 】ましてね、物が頂きにくい。お話しをするのに口元を押さえて話さねばならないという状態。ここ二三日、久富繁雄さんが、もう夜も昼もつきっ切りで看病してある。流行性感冒ですから、感染するかも分かりませんね、そこに繁雄さんのいさぎよさというものが。先生
がひいてある風邪なら、私も頂いたっちゃよかと、いう気持ちでだろうと思うです。これはもう、決して有難いものじゃないです。頂けないです。けれども、私の信心を頂いて下さるなら、流行性感冒になると、それは皆さんも流行性感冒になったってかんまんという気にならなければ駄目ということなのです。よか所だけは出して、悪かとこだけはいらんち言うようなものでなくて。私の信心の全てをね、一ぺんマスターせよと、こういうこと。そして、なら流行性感冒にかかったとしましょうか。その時にもし私に力があるとするなら、もう徳という言葉で表現するなら、その徳も一緒に頂かにゃと言うのが必要じゃと思うのです。
 私この感冒にかかってから、神様にお願いさせて頂いたことは、私は今でもよくわかりませんけれども、風邪だけの御供えをするなとおっしゃる。風邪だけ早くよくなりたいという気になるなと、お前の全てを御供えせろとおっしゃる。その全て御供えする中に、風邪もあるのだとおっしゃるのです。そしてお前に今度必要なものだけは、お下がり頂いたらよいじゃないかという意味なのです。素晴らしいことだけれども、私はまだよくわからんでおるわけです。皆さんが難儀であるとか、心配であるとか言うけれども、心配なところだけ願う信心じゃつまらん。私の全てを神様に委せるという気にならにゃ、自分に都合のよかことだけは任せるけど、都合の悪かとこだけは嫌です。というようなことではよくない。任せるとなったら、もう一切合切を任せる。だから、私自身が、私自身が流行性の風邪だけの御供えでなくて、全てを御供えしとるのですから。私の風邪を頂いて下さったら、私の全てがそこへ行くということになりはしませんか。
 これは余談ですけど、熱海の観音様ですね、何とか茂吉さんという大変有名な霊能者がおられましたね。先年亡くなられましたが、おさすりをする。何か佐賀辺りでも大変流行ったそうですね。何とか茂吉さん、とかいいましたね。岡田茂吉さん。枚生教というのですかね、観音教というのだそうです。こちらはもう一生ね、もう体が、ひぜんがさ一杯だったそうですね。ですからね、皮膚瘡が出来たらね、おかげ頂いたというて大変喜ぶそうです。教主様と同じことになれたと言うのです。と言うのもです、ひぜんがさだけが有り難いのでなくてね、その教主様のお徳を受けるという意味じゃないでしょうかね。
 まあ、それとこれと同じ意義かどうかわからんけれどね。私の場合、繁雄さんの場合でも、同じ同志が一緒におって看護しておられるのですから、私の風邪が感染せんとも限らない。けれども、感染してもよい、けれども風邪を頂く時には親先生の力も一緒に頂くぞと、いさぎよさがなからなければいけないと思うのですよ。
 日に日に生きるが信心なりと、そういう私は、いさぎよい生き生きした信心が、日に日に生きる信心と言うのではないだろうか。ここは頂くけれども、ここは頂かん。信心に連れはいらん、一人しずかに立たされているということを言われておりますけども。皆さん現在合楽で頂くことは、先ず一応は合楽流にならなければいけません。合楽の信心のよかところ、悪かところ、一応はマスターせねばいけません。そこから、甲は甲の人、乙は乙の人、個性もまたはっきりとしてくるでしょう。

 そして、今、合楽の何を頂くかというと、それこそ素晴らしい蕾からそのままにしておきたい程の、信心意欲というか。まあ、言わば、私の心の中に燃えている信心内容を、まだ本当のものではない、荒削りだけれども、蕾なのだ。けれども、その中に燃えておるもの、それこそこの信心を、世界中にも広げて行きたい。そして、私の言う理論なら、広まる可能性を持っておる。和賀心時代を創るということは、どういう、誰にだって分かる。わからんはずはない。 願って、願ってとか、おさすりして人が助かるのとか、というのだったり。世界中に普遍性(ふへんせい)がない信心に。私が、宗教革命だというけれども、えらい大きなことを言いよるけれども。確かにお釈迦様もキリスト様も金光大神のおかげを頂かれて、もう一ぺん助かりなさらにゃいけん。そういう助かり方では、余りややこしかというものを私は感じるから、宗教革命ということを言ったわけなのです。
 それも私はそこに、確信と、それに対する論理というものも、私流ではあるけれども、あると確信しておる。だからそういう意味の例えば信心をマスターして下さるということ。皆さんのものにして下さるということ。、そこから、楽しいことは、又、皆さんの信心のね、よりよい信心がまた、育つことでしょう。その時にいよいよ、一人信心ということになるのではないでしょうか。一人信心になる前に、先ず自分の帰依しておる、なら合楽なら合楽の教会に有難いと申し上げてよいでしょう。
 何と言うても、真似でもさせてもろうて、親先生の生き方、あり方と。どういう様な生き方、在り方をなさっただろうか。そういうことはという人がいくらもあります。都合のよかとこだけしか頂かん人が、それはね、本当の合楽の信心、そこんところを身につけさせて頂いて、そして一人せよといったような信心にもなって行く、その一つの過程においても、『日に日に生きるが信心なり』と、それこそ、日に日に死ねるが信心だという意味ですよね。日に日に生きるということは、毎日、昨日のは死んでしまっている、言うなら一生懸命過去の自分が死んで、新たな自分が生まれるということが、日に日に生まれるということです。
 そのような一生懸命を以て、信心に取り組む時に、先生の風邪が感染したってかまわんといった時に、風邪だけじゃ出来ん。いわゆる親先生の持ってあるものも一緒に頂きたいという信心の者は、この生き生きとしたものは、日に日に生きるということは、日に日に死んで行くことが信心だといったようなことがわからせて頂かねば、ここ仲々頂かれんところだと、一生懸命のものがなからなければ、そういう信心を本気で身につけて頂きたいと思う。まあ、とにかく、もう時は今です。そういう感じです。もうこれが咲いたらね、もう駄目で、咲かないまでに今の信心を本気で頂いてほしい。そう思うですね。どうぞ。